六月二十四日に吉野を発した大海人皇子は菟田郡家(うだのぐうけ)・伊賀駅家などを経て伊勢鈴鹿関を確保し、二十六日には、使からの報によって、彼が美濃の国兵三千を集めて不破関を固めたことをしった。皇子はさらに使を派して東海・東山道の軍の動員を命じ、二十七日、不破関に進み、ここで尾張国守の率いる二万の軍を指揮下に入れた。このように美濃・尾張の兵が迅速に集まったのは、近江朝廷側が大海人皇子に対する準備として両国に動員を命じていたため、それがそっくりそのまま大海人皇子側についたものとみることができよう。
一方、近江朝廷側でも、大友皇子は同じ二十六日に使を出し、東国・吉備(きび)・筑紫(つくし)の兵の動員を命じている。しかし、吉備・筑紫の国守や大宰帥(だざいのそつ)は大海人皇子に心を寄せる人々であって順調に進まず、東国は一足先に大海人皇子が確保してしまった。東国は、複雑な立場を持つ中央諸豪族がひしめく近畿地方と違い、伝統的に皇室・皇族によく服属した地方であるから、両者がここに注目するのは当然であるが、一歩さきんじた大海人皇子が勝利を収めたのである。しかも吉備・筑紫は距離からいっても都に遠く、募兵が成功しても援軍の到着には相当の日時を要する。大海人皇子がまず東国を抑えたことは、戦略上きわめて有利であった。
この時に大海人皇子が動員した東国の兵はどの範囲のものであったかを考えてみると、美濃・尾張の二国はもとより、東山道においては、信濃(しなの)の兵を発したことが記録にみえているから、飛驒(ひだ)・信濃の辺まで動員されたのであろう。一方、東海道方面では、七月上旬の戦闘に「甲斐(かい)の勇者」なる騎兵の勇戦が書紀に伝えられている。すなわち、遠く甲斐の兵も戦場にあらわれているのであるから、三河・遠江・駿河の兵が参加していないはずはないと認められよう。大海人皇子の動員が、意外に大規模なものであったことが推測されるのである。