戸籍と班田収授法

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 全国民はすべて、六年に一度作られる戸籍に登録された。大宝二年の美濃国や九州地方の戸籍や、養老五年の下総国戸籍などが、一部分、奈良の正倉院に現存しているのは有名なことである。この戸籍の記載に基づいて、六年に一度の割で班田収授(はんでんしゅうじゅ)が行なわれた。
 班田収授法は、六歳以上の者に対し、男には二段、女にはその三分の二、すなわち一段百二十歩の口分田(くぶんでん)を与えて耕作使用させ、死亡などの事故があれば班田の年にこれを収公し、新たに受田年令に達した者には新規に口分田を与えるというものである。この量の口分田では、農法が未発達だった当時としては、決して一人の生活源として十分ではないという説もあるが、とにかく国民は一応まったくの無一物で放置されることはないわけである。
 その点ではこれは一種の救済的な社会政策であるが、その反面、国民を掌握し、徴税を確実にする手段であるともみることができる。事実、庶民の負担は相当に大きなものであったことは疑いない。

大宝二年 美濃国戸籍(正倉院文書)