国の管轄する郡については、平安時代の『延喜式』や『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』以前にはこれを列挙した史料はないけれども、元来は浜名(はまな)・敷智(ふち)・引佐(いなさ)・麁玉(あらたま)・長田(ながた)・磐田(いわた)・周智(すち)・佐益(さや)・城飼(きこう)・蓁原(はりはら)の十郡であったとしてまちがいがないと思われる。このうち、浜松市の現在の地域は、敷智・長田・麁玉・引佐の諸郡にまたがるものであろう。そして市の中心部はもともと敷智郡の地であって、これが浜名郡に含まれたのは明治二十九年(一八九六)の郡区改正による結果であり、それまでは浜名郡は浜名湖西方の地に限られていた。これらの郡界は、地方によっては古来それほどの変化はみせていないが、遠江国の場合は、天竜川の河流変遷や氾濫などの事情もあって、相当に変動があったようである。また、長田郡は和銅二年(七〇九)二月、地域広大で民家も分散し、連絡に不便であるとの理由で二つに分けられ、長上(ながのかみ)・長下(ながのしも)の二郡となった。ただし、この分置の理由は『続紀』に記すところであるが、この地はさして広大でもなく、また民家に乏しい地であったとも思われないから、おそらくこの理由は国司が分置を申請した時の作文で、実際には民戸繁栄などの理由から分置を有利としたためであろうというのが、『静岡県史』の推測である。
遠江郡名地図