国司としてはなお、『万葉集』巻八に遠江守桜井王(さくらいおう)が聖武天皇に奉った歌がみえているが、この桜井王は天武天皇の子孫で、天平十一年(七三九)に大原真人の姓を賜わっているから、おそらく天平初年に遠江守であったと思われる。また、天平勝宝四年(七五二)以後、つぎつぎと遠江守となった多治比真人犢養(うしかい)・賀茂朝臣角足(つのたり)・多治比真人国人の三人は、いずれも天平宝字元年(七五七)の橘奈良麻呂(ならまろ)の乱に坐して処分された人々であることは、偶然かもしれないが、あるいは藤原仲麻呂(後の恵美押勝(えみのおしかつ))対橘・大伴・多治比氏という当時の中央政界の対立事情が反映しているのかもしれない。