このほかに国司はなお相当数の人々が知られるが、ここには省略する。令制における国の守という地位の職権はきわめて大きいもので、令に定められているその職掌をみても、戸口・勧農・徴税などの民政全般はもちろんのこと、牛馬・駅伝・兵士・兵器・社寺・僧尼・訴訟にいたるまで、およそ国内の事で管せざるはないという全権掌握の形である。奈良時代にはまだ後世のように国司が赴任しないという弊風はあまりみられないから、これらの遠江守に任ぜられた人々は、皆任国に下向して、行政にあたったであろう。彼らは任期は四年であるが、実際にはかならずしも皆が皆任期満了まで在任するわけでもなく、いろいろな都合で任期中途で転任する例も多い。【国府】しかし、とにかく国司に任命されれば、任国遠江にはかならず下向していたと認められるから、国府があった磐田(いわた)市見付(みつけ)(もと見附)に赴く途中、現在の浜松市域を通過したことは疑いをいれない。ではつぎに、当時の遠江国に関する交通および軍事の面をみることとしよう。