1 三河から本坂(ほんざか)を越え、引佐地方から宮口に出て、於呂(おろ)の辺で天竜川を渡り、敷地(しきじ)を経て山梨に出る線、
2 鷲津・新居(あらい)・橋本(はしもと)の辺で浜名湖を渡り、浜松から天竜川下流を越えて磐田原に上り、見付から山梨方面に出る線、
3 引佐地方から三方原を横ぎり、積志(せきし)から笠井への線で天竜川を越して磐田原を横ぎる線、
の三つを想定しているが、いずれも妥当とされる路線であろう。この中で、令制の駅路として選ばれたのは第二の路であるが、その駅名などは平安時代の延喜式にいたってはじめて知られるのであるから、次章において細説することとする。なお、養老三年に按察使が設けられたことはすでに述べたが、翌四年には、按察使が上京する時や管内を巡回する時には伝馬に乗ることを許され、遠江国に按察使用として、七剋(こく)の伝符が給せられたと『続紀』にみえている。この七剋というのは、その実体が明らかでないが、何かきざみをつけたものだといわれ、その数にしたがって馬を徴用することができるのである。また、令によれば、遠江には三個の駅鈴が支給されていたことになる。
この駅制が軍事上にも大きな役割を果たすことは、緊急の場合、報告や命令がこの駅路によって敏速に伝えられることを考えても容易に理解されるが、それでは令制では、軍事兵役の面をどう定めていたかをみよう。
古代交通地図