防人はこの後、さらに天平宝字元年(七五七)にまた廃止され、その後、蝦夷(えぞ)対策の関係もあって全面的復活は望めなかったにせよ、一部は復活した形跡があったりして、複雑な変遷をたどるが、大体、奈良時代末までは東国防人も一部分は存続していたらしい。その間、軍団の制も変遷を重ねたが、ついに延暦十一年(七九二)、諸国の軍団兵士はまったく役にたたないとして、蝦夷対策の緊急時であるにもかかわらず、軍団は全廃されるにいたったのである。【遠江の兵】蝦夷の対策としては、すでに和銅二年(七〇九)・養老四年(七二〇)の両度の征討に際し、前回は遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の兵を、次回は遠江・常陸・美濃・武蔵・越前・出羽の兵を動かしたことが『続紀』にみえていて、遠江の兵が常に用いられているのであるが、蝦夷征討のことは、つぎの平安時代の章にゆずることとする。