なお、天平宝字五年(七六一)、おそらく藤原仲麻呂の案として新羅征討が計画され、東海・南海・西海三道に節度使が派遣された時、東海道節度使は、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野十二国で船百五十隻・兵士一万六千人・水手(かこ)七千五百人を検定した。このように、防人といい、新羅征討といい、蝦夷征伐といい、あらゆる場合に遠江以下の東国の兵が頼みとされたのである。これは彼らが勇武であったと同時に、やはり昔から、中央勢力が強固に侵透していて、朝廷としては使いやすかった事情があったのであろう。奈良時代に遠江の果たした軍事的役割は、他の諸国に比べてまさるとも劣らぬものがあったのである。