さて第四片の末尾には、
「謹んで件(くだん)の天平十二年の輸租の夾名(きょうみょう)、具(つぶ)さに注すること件の如し。仍(よ)りて貢調使(こうちょうし)正六位上大伴宿祢名負(なおい)に附して申上す。以て解(げ)す。」
とあって、天平十二年十一月廿日という日付につづいて国司たちの署名がある。それによれば、守(かみ)の百済王孝忠は大御贄(みにえ)使として、大掾(じょう)の掃守(かにもり)宿祢は朝集(ちょうしゅう)使としてそれぞれ上京中であり、今度貢調使として上京するはずの大伴宿祢名負は介(すけ)であって、輸租帳はこの名負が持って中央に届けたことになる。この朝集使とか貢調使とかいうのは、四度使(よどのつかい)と称するものの一つで、国司が提出する年四回の重要な報告書の一部である。朝集使は国政一般を報告し、貢調使は調庸物を記した調帳を提出するのであるが、他に財政報告書である正税帳を届ける正税帳使、計帳を提出する大計帳使(大帳使)などがあり、これらの使はそれぞれ多くの帳簿類を揃えて提出し、中央ではこれらの書類によって地方の状況を把握したのであった。