天竜川の氾濫

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 【麁玉河】これに加えて、遠江では天竜川の氾濫による水害があった。和銅八年(霊亀元年、七一五)五月二十五日、遠江国に地震があり、山が崩れて麁玉河(あらたまがわ)をせき止めてしまった。麁玉河とはすなわち天竜川である。せき止められた河水は数十日後に氾濫し、敷智・長下(ながのしも)・石田(いわた)(磐田)の三郡の民家一七〇余軒が水没し、田も大損害を受けた。また、神亀三年(七二六)にも、遠江国の五郡が水害を受けたとみえることも、天竜川に関係するものであろう。
 
 【荒玉河】天平宝字五年(七六一)七月、荒玉河の堤防は三百余丈にわたって決潰した。これは恐らく台風による被害であろう。【天宝堤】政府は延人員三十万三千七百人に達する労働力を徴発し、手当を支給してこれを復旧したが、これがいまなお浜北市の貴布袮東北方などに跡を残している天宝堤(てんぽうづつみ)だといわれる。『静岡県史』所載の図によれば、堤の横断面は下底三間、上底二間、高さ四尺五寸で、四町余りにわたって残存していたようであるが、今日ではかなり破壊されたのは遺憾である。

天宝堤遺跡(浜北市小林)


浜北市天宝堤図(静岡県史による)小林字堤外総長二百五十五間地積二段八畝十六歩(原野)

 以上の天竜川の水害は、現浜松市域が直接被害を蒙ったものであり、このほかにも天竜川の氾濫による被害は少なくなかったであろうと察せられる。そして天宝堤の位置からみても、当時は天竜川は、今日の河流よりもかなり西を流れていたわけであって、浜松市域の被害はそれだけ大きかったものと思われる。