「遠江国敷智郡竹田郷戸主刑部真須弥(おさかべのますみ)調黄絁六丈 天平十五年十月」
と記した絁(あしぎぬ)(並製の絹布)が現存し、また近年平城宮址の発掘調査の際、大量に発見されて有名になった木簡の中にも、
「□□国長下郡中男進堅魚」
と読める木札の断片があったりして、浜松市域からもこれらの品々が中央に運ばれた姿を思い浮かべさせるが、その調庸類の運送も正丁の負担であり、衛士・防人の兵役や、仕丁(しちょう)の役務、さらには強制的に雇われて都での土木工事に従事する雇役(こえき)の負担などを考えると、当時の正丁の負担が過重であったことはだれしもが認めざるをえない。
天平十五年 遠江国調黄絁(正倉院蔵)
平城宮址出土木簡(奈良国立文化財研究所蔵)「遠江国山名郡進上中男作物堅魚十斤 天平十七年□月」 文化財保護委員会(奈良国立文化財研究所)複製許可済