墾田の奨励

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 その一方、口分田の不足という事情もあって、開墾の奨励は政府として取らざるをえない処置であった。こうして養老七年(七二三)には三世一身法が出され、さらに天平十五年(七四三)には墾田永代(えいたい)私有令が発布されて、令制の大眼目である公地主義は実質を失ってしまった。しかもその結果、有力者の私有地は激増し、多くの公民は脱落してこれら大土地所有者に使役されることとなり、行政全般のゆるみも加わって、令制当初の整備充実した方式はその形を変えていくのである。