桓武天皇の改革はとくに地方政治に関してその重点が置かれ、班田制の改革・勘解由使(かげゆし)の設置・徴兵制の廃止など、社会の実状に応じた処置が取られたが、しかし、このような律令体制維持の熱意はほぼ十世紀のはじめ、醍醐天皇のころまでで終わり、しかもその実績はついにあがらず、つづく摂関政治期には、形は律令体制の外形を保ちながらも、社会の進展に応ずる新しい施策はなんら施されないままに、行政はゆるみ、地方は変貌した。そして十一世紀末に院政が開始されると、律令行政組織の崩れはますますはなはだしく、各地方はそれぞれ自己の利益を確保するために相争う無秩序な混乱状態におちいって、そのあいだに発生し発展した武士の勢力が伸長し、ついに平治元年(一一五九)の平治の乱によって、武士勢力を統合した平氏政権が登場するにいたるのである。