その奈良時代における例として、員外(いんがい)国司という制度がある。天平宝字四年(七六〇)には当麻真人広名(たぎまのまひとひろな)が、神護景雲二年(七六八)には益田連縄手(ますだのむらじなわて)がそれぞれ遠江員外介に任ぜられているが、これらは正官の介のほかに、定員を越えて任ぜられ、明らかに介としての収入が目当てになっているもので、ことに益田連縄手の場合などは、制度として員外国司の赴任が一切禁ぜられた時期の任命である。これはむやみに多くの国司が下向すると、かえって行政が混乱するからであるが、しかし、赴任禁止の国司が任命されるということは、国司の任が、たんにその収入だけが問題にされていて、まったく利権としてみられていることを明らかに示すものである。