員外国司の制は、奈良時代の末に光仁天皇の国政改革に際して廃止されたが、平安時代に入ってしばらくすると、今度は権官(ごんかん)という形で復活し、さらに盛んになった。ことに員外国司は介以下に限られて員外守はさすがに置かれなかったが、今度は遠慮なく権守が任命されるようになったのである。遠江国司の定員は宝亀六年(七七五)に少目一人が増置され、平安中期の延喜式では、史生(ししょう)も大国に准じて三人から五人にふえているが、そればかりでなく、四等官それぞれに権官が置かれたことは、長徳二年(九九六)の大間書(おおまがき)にも明証があって、国司の定員は大幅にふえたわけである。
そしてこれらの国司が、すべて赴任するわけはもちろんありえない。承和十一年(八四四)の参議左大弁兼遠江守正躬王(まさみおう)などという例は、明らかに遙任であろうが、延暦二十三年(八〇四)の侍医兼遠江権掾倭広成なども、学芸奨励のために、学問料として諸国の権掾の地位を授けるという当時一般の慣例からみて、権掾の収入を目当てとした遙任の官だったに相違ない。
長徳二年大間書 遠江国権官の記事(影写本)