このような国司制度の乱れは、十世紀以降、ますますはなはだしくなった。その大きな原因は年給という制度にある。
この制度は、地方行政が乱れて、高級貴族に対する給与として令に定めてある封戸・位田・職田などが実質上その役割を果たさなくなってきたために、その代わりとして考えだされたものである。そして、天皇・上皇・皇后・親王や公卿などは、その地位に応じて、毎年一定数の官吏の推せん権を与えられ、位階(主に従五位下)を受ける者、官職(主に判官・主典・史生など)を授けられる者を推せんするが、その際、叙料・任料と称する推せん料を取りたてて収入とする制度である。
この年給の制度は年を追って流行の度を増した。『除目大成抄(じもくたいせいしょう)』に長徳四年(九九八)に、税部宿祢興国(ちからべのすくねおきくに)という者が東宮の年給によって遠江掾に任ぜられた例などがみえているが、このように国司の地位が売買の対象とされているのであるから、まじめな地方行政はとうてい望み見ない。