この年給の制はおもに介以下の下級国司について適用されたせいもあって、介以下の定員の無視や、その職の有名無実化が、平安中期以降は年とともにはげしくなっている。たとえば寛弘三年(一〇〇六)九月の大和国栄山寺牒(えいざんじちょう)の袖(右端)には、遠江介藤原某が署名しているが、彼は遠江介であるにもかかわらず、実際には大和国で大和の行政事務にたずさわっているのであって、このような例は平安中期以降の文書には数多く見受けられ、諸国の介・掾・目などの官がいかにいい加減に扱われているかを示している。これらの官はおそらく多くは肩書を得るために買われたものなのであろう。こうなると、諸国の行政事務の実際は、このような介・掾・目などの手を離れて、在庁官人(ざいちょうかんにん)と称する地方の有力者の手に移るのであるが、その問題については第三節(三一六ページ)で触れることとする。