さすがに国の長官である守については、権守は置かれたけれども、介以下ほどの乱脈な状態にはならず、平安中期まではかなり実際に赴任して行政にあたったようである。しかし、これらのいわゆる受領(ずりょう)という連中とて、その目的とするところは国司としての利得であって、彼らがいかに抜目なく財物をかき集め、不法を働いたかは、有名な尾張国郡司百姓解文(げぶみ)にみえている尾張守藤原元命(もとなが)の例でも明らかであろう。【成功】彼らはこうしてかき集めた財力の一部分をもって官の造営事業などを請け負い、その功によって官職をえた。これが成功(じょうごう)である。また、同じく財物を出して国司の再任や任期延長を認められた。これを重任(ちょうにん)・延任という。そして、このような弊風は院政期に入ってますます進み、国司はたとえ受領であっても任期中ずっと任国に駐在するのではなく、ほとんど在京し、国政は代理として派遣した目代(もくだい)の監督下に在庁官人にまかせ、自身はせいぜい年に一月とか、数年に一度任地に顔を出して、収入を確保するのを普通とした。はなはだしきは受領が二任期八年間を通じ、ただの一度も任国に下っていない例もある。