そして、ついには公卿(くぎょう)などが一国を与えられ、子や腹心の者を国司とし、一国の収入を手中に収める、国の切り売りともいうべき知行国(ちぎょうこく)の制度すら、平安末には始まった。遠江国も保元年中、政界の大立物として平治の乱(一一五九)に平清盛に敗れた少納言入道信西(しんぜい)の知行国となった形跡が、松尾(まつのお)神社文書(もんじょ)、嘉応三年(一一七一)二月の池田庄立券文(りっけんもん)にうかがわれる。そして、『山槐記(さんかいき)』によれば、治承三年(一一七九)のころ、遠江は入道皇太后宮権大夫藤原俊盛の知行国であった。