班田収授の法についていえば、平安時代に入ってからその実施はしだいに困難になり、六年一班の規定は実際には二十年に一度、五十年に一度というような状態となって、畿内では元慶(がんぎょう)七年(八八三)、諸国でも九世紀末を最後として、以後まったく行なわれた形跡がない。『三代実録』仁和(にんな)元年(八八五)四月条に、遠江国蓁原郡の百姓口分田三六七町余が、先年水害に遭ったので代わりに不堪佃田(ふかんでんでん)を与えたことがみえるが、これが口分田班給に関係のある、全国でもほとんど最後の史料である。戸籍についても、今日わずかに残存する延喜二年(九〇二)の阿波国、寛弘元年(一〇〇四)の讃岐国などの戸籍の内容が、全員ほとんどが調庸賦課の対象とならない老丁や女子で埋まっているという奇怪至極なものであり、しかもこのような公文書が堂々と作成され、提出されたということを考えれば、もはや律令体制は、手のつけようもない段階にきていることが察せられよう。