民政の衰微

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 遠江の民政に関しては、弘仁元年(八一〇)・同十四年・天長十年(八三三)に飢饉や疫病があったのでこれを救恤し、貞観(じょうがん)十五年(八七三)、引佐(いなさ)・長上(ながのかみ)両郡の百姓に一年間調庸雑徭を全免したこと、仁和二年(八八六)二月、越前権介藤原朝臣恒泉(つねいずみ)を遠江に派遣して鷹狩を行なわせ、野鳥の害を払ったことなどが国史に散見するが、そのほかにはとくに国政振興の跡はみられない。わずかに『三代実録』元慶八年(八八四)十二月条に、前遠江守藤原朝臣清保がその任中、四二万束の稲を蓄積して諸郡に貯蔵したことがみえているだけである。しかし、この清保については、さらに考うべきことがある。それは彼が遠江守となったのは元慶(がんぎょう)二年(八七八)正月のことであるが、その任期中の元慶五年(八八一)九月、太政官はつぎのことを決裁した。