いずれにせよ、まったくの不可抗力でない限りはその焼失・損耗は国郡司の責任であるが、これが当然、国司の交替のさいに問題になる。この国司の交替にさいしては、昔からいろいろなもめごとが多くて、円滑にいかなかったために、奈良時代から交替にさいして解由(げゆ)という証明書を作ることになり、さらに桓武天皇の時から、勘解由使(かげゆし)を置いてこれを検査し、責任の所在をはっきり定めることとした。すなわち国司の交替にさいして、新任者は帳簿と現地の官物・倉庫などを照合して、不正がなくそのまま引き継いでよいと認めれば解由状を、なにか欠陥があればその点を明記した不与(ふよ)解由状を出し、勘解由使の裁定を受けるのである。
しかし、実際には裁定がもめて何年も遅れたり、たとえ前任者が責任ありとして弁償を命ぜられても一向に埋めなかったりしているうちにうやむやになる事も多く、しかも頻繁な交替のたびにもんちゃくが重なったまま、未解決のうちに何十年も経過すると、帳簿はますますでたらめになり、倉の中味は減る一方というのが当時の全国一般の状況であった。
【大赦】遠江の倉の焼失は当然清保の前任者の責任であるから、清保はその旨を不与解由状に記して提出したわけであるが、おそらくその決着もつかないうちに、前任者は元慶四年(八八〇)十二月の大赦で、責任を解除されてしまったのであった。この大赦は清和上皇の重態にさいして出されたもので、当時、即位などのさいにはもちろん、皇族や重臣の病気とか、瑞祥(ずいしょう)・災害の時などにはしきりに大赦が行なわれたが、国司交替の際に発見される不正も、この大赦で免除になることが多かったと思われる。極端にいえば、多少の不正をしてそれが発覚したところで、すこしねばっていればやがて大赦ですんでしまうという状況であったろう。