この清保のような国司はむしろ異例であって、ほとんどの国司は歴代私腹を肥やすのに熱心で、施政の熱意はなかったとみてよい。中央としても、国司は規定額の財物を送ってきさえすればこれを最上とし、それ以上のことはなんら要求しなかった。そして国司は徴税請負業のようなものとなり、あらゆる口実をもうけて中央に出す貢献を値切り、怠って、自分の懐に入れようとした。その例は枚挙にいとまがないが、元慶三年(八七九)に、遠江など十か国の国司が言上した損田数が、どうも信用ならないと指摘されたことが『三代実録』にみえている。
平安時代の地方行政は、かくのごとくに乱脈であった。そしていたるところでごまかしが横行し、たとえ文書に明記されても、かの戸籍のごとく、まったく信用するにたりないものがある始末で、その実状は容易につかめないけれども、この点に関しては第三節において、また触れるところがあるであろう。