桓武天皇の二大事業が征夷と造宮とであったことは、すでにその当時から人の指摘するところであった。日本後紀によれば、延暦十六年(七九七)、遠江・駿河・信濃・出雲の諸国から約二万人の雇夫が徴発されて平安京の造宮に従事した。これは雇役であるから無償労働ではないけれども、その労働条件はいたって悪かったことが奈良時代の例からも推測され、大きな負担となったことであろう。しかも四か国で二万人という数は、一国平均五千人であり、それだけの労働力を割かれることは、遠江に大きな影響を与えたと想像される。そして、史料には明らかにあらわれていないけれども、おそらくその前の長岡京の造営や、さらにさかのぼって奈良時代の大造営事業にも、遠江の役丁は徴集を受けたのではなかろうか。古くは皇極天皇元年(六四二)に、東は遠江を、西は安芸を限って造宮丁が徴発されたことが『日本書紀』にみえている。遠江の壮丁はこのように東の征夷にも、西の造宮にも駆り出されたが、これは広義の東国に属すると同時に、京にも比較的近いという地理的条件によるものというべきであろう。