さて、延暦十六年の造宮丁徴集は、あるいはその五年前の延暦十一年(七九二)六月、奥羽や九州を除き、全国の兵士軍団を全廃したことと関係があるかもしれない。当時蝦夷の征討は失敗を重ね、軍事力の増強が必要とされていた時に兵士の全廃が令せられたことは、当時の軍団がいかに無益のものになっていたかを明示している。諸国軍団の兵が劣弱で、幹部の私用にのみ使役され、弊害が大きかったことは奈良時代以来のことであって、政府はしばしば兵制改革を試みたのであったが、ここにいたってその終止符がうたれた。
軍団の廃止