【新羅人の暴動】この後、弘仁十一年(八二〇)に遠江・駿河二国在住の新羅人七百人の暴動に出兵したこと、貞観八年(八六六)に諸国健児の素質低下を戒める太政官符が出されたこと、元慶二年(八七八)の出羽の俘囚(ふしゅう)の乱にさいして東海・東山両道の諸国に、精鋭の勇者の待機が命ぜられて、遠江には十人が割りあてられたことを除いては、遠江に関しての直接の軍事的な事件は見あたらない。しかし、これは決して国内が平静であったためではない。地方政治の混乱によって、いたるところに群盗と称せられる暴力集団が発生し、一方、横暴な上下の役人も、地方の有力者も、富強な農民も、皆兵器をたずさえて暴力的な行動を辞しなかったのが全国一般の風潮であった。有名な平将門(まさかど)・藤原純友の乱のごときは、このような各地の暴力的要素が、東西において集中的に爆発した現象であったといえよう。そしてこのような暴力の渦の中に、武士が発生し、組織されていったと思われるのである。