平将門の乱

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 天慶(てんぎょう)二年(九三九)十一月、そのころ豪族として関東に名をあげていた平将門は、豪族間の争いに介入して、勢いの赴くところ、常陸国府を焼き、さらに翌月、上野・武蔵・相模など、関東全域を制圧し、ここに反乱の姿を明瞭にした。【飛駅】その報は東海・東山両道の諸国から京都にもたらされたが、翌年正月、遠江国の飛駅使が入京して、賊が隣国駿河に乱入し、国分寺を襲った由を急報している。朝廷は三河・尾張に援兵派遣を命じたが、もとより遠江も賊への対策を整えたことであろう。ただしこれらの兵力が、土豪の率いる私兵から成っていることはいうまでもない。
 将門は遠江からのこの飛報が京都に達した二十日後には、下総において平貞盛・藤原秀郷の連合軍に討たれてしまい、戦禍は幸いに遠江におよばなかったのであるが、当時令制はすでにあらゆる方面で崩れてきているとはいえ、この事件に関しては遠江をはじめ、諸国が頻々と駅使を飛ばして朝廷に急を告げており、その飛駅の実体が果たして令制どおりのものであったか否かははなはだ疑わしいとしても、とにかく令の駅制が、なおその形を残していることがうかがわれる。そこでつぎに、浜松付近について、駅の制度を概観してみよう。