つぎの栗原駅は、正確には不明である。『静岡県史』はこれを『倭名抄』の敷智郡駅家郷にあたるであろうとし、それが浜松郷のつぎに記されていること、鎌倉時代の『吾妻鏡』や『十六夜日記』に、浜松に引馬(ひくま)宿があることが示されていることなどから、当然浜松郷、すなわち浜松市伊場・鴨江の付近で、なお進んで原の字がある点からして、浜松市野口町・八幡町辺かとした。この推論は、『倭名抄』の記載や、駅と駅との間隔三十里(いまの約一六キロ)という令規などからすれば穏当であるが、ただつぎの引摩駅と、この浜松の引馬宿との関係をどうするかという点で、きわめてむずかしい問題が起こる。