さて、以上のようにみてくると、遠江五駅のうち、その現在地をほぼ確定できるのは最初の猪鼻と最後の初倉の二つだけにすぎない。そして湖南から見付の国府を経て初倉にいたる路線を考え、ここに『県史』のごとくに浜松・見付・掛川の地に三駅を配する時は、各駅の間隔はほぼ平均し、『倭名抄』の郷名とも矛盾せず、穏当な見解といわざるをえない。しかし、この説には、栗原駅の方位が淡海図の記述とあわなくなることのほかに、九条家本『延喜式』に記された引摩駅の名を無視しているという大欠陥があり、また、引馬の地が浜松辺であることは、古来の諸文献に明証があり、近年まで現地に引馬の名が残っていたことを考えれば、『県史』の説にしたがうことは危険である。一方、引摩を引馬と断定することも前述のように多少の難があり、また、栗原駅を篠原村付近に、引摩の地を浜松辺に求めるならば、国府(磐田市見付)の位置を一駅として加えるならば別として、駅の間隔ははなはだしく不均衡になるから、これまたまったく確かな説とはいえない。この問題をいまここに解決しえないのは残念であるけれども、全般の状況からみて、浜松の地に一駅が置かれたことは間違いないとしてよかろう。