猪鼻駅の復興

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 古く『続日本後紀』の承和十年(八四三)十月十八日条に、
 「遠江国浜名郡猪鼻駅家は廃し来れること稍久し。今、国司言(もう)すにより、使を遣してその利害を検し、更に興復せしむ。」とみえるのは、猪鼻駅がおそらく浜名橋の連絡杜絶によって、しばらく休止していたことを示している。
 浜名の橋は歌枕として和歌にもしばしば詠みこまれているが、歌人源重之(しげゆき)が陸奥守藤原實方(さねかた)をたずねて下向した時、浜名橋は焼失していたことが彼の歌にみえるが、これは長徳年間(九九六ごろ)のことに疑いない。そして『更級日記』によれば、その二十年後、寛仁(かんにん)元年(一〇一七)には浜名には黒木の橋が架せられていたのが、同四年(一〇二〇)帰京の時には跡かたもなくなっていて、舟で渡ったという。このような故障は頻繁に起こったことであろう。