この板築駅は『延喜式』に載せられていないが、もとよりこれは駅路の変更・改廃によるものである。駅制は平安時代に入ってしだいに衰頽の度を増し、整理される駅も増して来た。この駅制を崩した最大の理由は、駅の疲弊にあり、それは交通量の増大、ことに役人や貴族の従者などの有力者が、規定にそむいて私用に駅馬・駅子を酷使し、その負担に堪えかねて駅子の逃亡、駅の衰微が目立ってくることに基づくのである。そして地方行政の紊乱とともに、盗賊の危険も増し、交通の障害は増加して、ついに平安中期以降、令の駅制は崩壊し、駅の運行は事実上停止の形となった。『更級日記』などをみても、駅路は一般交通路としては当然残っているけれども、駅伝そのものの施設を利用した形跡は、どこにもみられないのである。