天竜川の渡船

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 なお、この駅路に関して、浜名橋のほかのもう一つの障害として、天竜川が考えられよう。ここには当然渡舟が設けられていたであろうが、その具体的な状況は明らかでない。【広瀬川】ただ、『文徳実録』の仁寿(にんじゅ)三年(八五三)十月二十二日条に、広瀬河に郵船(ゆうせん)(渡舟)二艘があるが、川広く、流れは急で、行人が停滞するにより、更に二艘を加えることを遠江国から奏請し、許されたとある。広瀬河は天竜川の異名であり、一時、官の手によって船四艘が置かれていたことが知られよう。もっとも天竜川も、後の例によってみれば、時によっては徒渉も可能であったらしい。
 以上、平安時代の交通状況についてみてきたが、ここでさらに、『延喜式』にあらわれた遠江国の状況について、若干触れておこう。