源為憲の奏状

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 この奏状の中で、為憲は、遠江が衰弊していたのを、在任中に復興した功績を述べて、彼が赴任した前年に、遠江国内の作田は千二百余町であったが、為憲の任期の終わりには、現作田三千五百余町に増加した、と記している。『倭名抄』の田数が何に基づいたものかはわからないが、おそらく官の帳簿に記された公定のものを用いたのであろう。その『倭名抄』の田数に比し、為憲赴任当初の田数は、彼の言によればじつにその一割にも満たない。彼が四年の任期中にこれをほぼ三倍に増したのは、たしかに功績であろうが、なおかつ全数の四分の一程度であって、残余の約一万町は荒廃していたことになる。奏状に載せたのが公田数だけであったにせよ、これはあまりに不自然でもあり、ことに当時の国司のいうことは信用ならないものが多いから、額面通りには受け取りにくいけれども、いくら当時の田が、技術未熟のために荒廃しやすく、また、人民の把握が困難であったとしても、公定の額とのこのような大きな食違いを考えれば、延喜式を安易に信頼することは禁物である。社会の現実は、すでに大きく変貌していたのであった。