[荘園の発生]

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 律令体制は公地公民主義に基づいて土地人民を把握し、これに対する賦課によって、国家活動をささえることを原則とした。しかし、すでに奈良時代の初めから、公民の動揺がみられ、土地についても、人口の増加や田の荒廃などの理由から、土地の開墾を奨励するほかはなく、勢いのおもむくところ、ついに墾田の永代私有を認めるにいたり、令の公地主義は崩れてしまった。

荘園・御厨および社寺地図

 こうして起こったのが荘園である。
 一方、平安時代に入って、班田収授の法もほとんど行なわれないばかりか、課役を逃れて浮浪するいわゆる浪人はますます増加し、また一方には、社寺・貴族や有力な豪族は、これらの浪人の労働力を吸収して開墾を進め、私有地を増した。
 これらの荘園の形とか性質は、時間の経過にしたがって複雑な変遷があり、いちがいにはいえないけれども、年とともに増加し、またもともとは荘園といえども免除されることのない筈の租税を、いろいろの口実を設けて、逃れるようになっていったことは明らかである。