その第一は長上(ながのかみ)郡・長下(ながのしも)郡にあった貞観寺(じょうがんじ)領である。貞観寺は人臣摂政のはじめとして名高い藤原良房が、氏の繁栄を祈って建てた真言宗の寺で、朝廷の厚い保護を受けたのであるが、『三代実録』の貞観六年(八六四)三月四日条には内蔵寮(くらりょう)の所領であった遠江国長上郡の田地一六四町を、翌七年(八六五)九月十四日条には長下郡の水田一二町を、それぞれ貞観寺に施入したことがみえている。ところが、『仁和寺(にんなじ)文書』の中に、貞観十四年(八七二)三月九日付の『貞観寺田地目録帳』なるものがあり、これは同寺が十一か国に持っていた合計七五五町余(内熟田(じゅくでん)三二七町・荒田一四八町・未開地二七一町・畠八町)の地を列挙したものであるが、その中に右の二か所が明記されている。つぎにその文を掲げよう。
「遠江国の庄二処、地百七十九町九段三百廿四歩
市野(いちの)庄地百六十七町 長上郡に在り、
熟田九十五町一段百六十四歩
未開地七十一町八段百九十六歩
已上は内蔵寮の庄、太政官去る貞観六年三月四日の符に依りて施入(せにゅう)、
高家庄地十二町九段三百廿四歩 荒、長下郡に在り、
已上は清原池貞の一身田(いっしんでん)、太政官去る貞観七年九月十四日の符に依りて施入、」
貞観寺田地目録帳 遠江国荘園の記事(京都 仁和寺蔵)