これによれば、長上郡にあった内蔵寮領一六七町は、市野庄と呼ばれるものである。その地は今日も市の東部に市野の名を残していて、それと知られる。この地が内蔵寮領となったのがいつからであるかは明らかでないが、元来、中央諸官庁は諸国から集まった貢納をもって経費に充てるたてまえであるけれども、しだいに徴収の円滑を欠くようになり、到底諸国からの貢納だけに期待するわけにいかないので、平安初期からは、中央諸官司が直接に所領を設定し、そこからの収納に頼るようになった。【内蔵寮領】この内蔵寮領もおそらくその類で、官営の荘園とでもいうべきものである。これと同様に皇室もさかんに勅旨田を設定して、経済をまかなうようになった。これはすでに令制の財政制度が破れつつあったことを示すものである。
つぎの高家庄一二町については、その所在は不明である。また、『三代実録』にはこのほか貞観七年十月二十八日条に、長上郡の空閑地一六〇町をやはり貞観寺に施入したことがみえているが、この地が『貞観寺田地目録帳』に載せられていないのは、どういう理由によるものかわからない。