私営田方式

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 この貞観寺領が、この後どんな運命をたどったかは史料に欠けるが、おそらくそれほど長い年月はつづかなかったのではあるまいか。当時多く行なわれた荘園の経営方式は私営田(しえいでん)方式と称せられるもので、領主は農民を集めて耕作させ、その租税・食料・手間賃を負担して残りをなるべく全部自分の収入とするやり方だったらしく、これは農民を強力に支配しているうちはよいけれども、やがて農民が自己の耕作権を主張したり、領主を離れて他に移ったりして、十一世紀には急速に衰微し、消滅するのが多くの例だったようである。
 この後、寺領荘園については、長承のころ(一一三二ころ)に頭陀寺(ずだじ)領川勾(かわわ)庄があったことが知られるが、これについては後の池田庄のところで触れることとする。