これと同様の方法は、『東寺百合文書ヤ』にみえる康和(こうわ)四年(一一〇二)七月の、遠江国が注進した東寺封物の納入書においてもとられている。そしてこの場合は更に複雑で、まず絁一疋を米一石というような具合で封物を全部米に換算し、一年分を米二八三石一斗二升五合と算出する。その上でさらに米二石につき絹一疋として換算し、実際にはすべて絹で納めたものらしい。しかもこの時、康和元年~四年の四か年分を一度に計算しているところをみると、年々定期的に納めてはいなかったのではなかろうか。果たして嘉承二年(一一〇七)の東寺の勘文によれば、遠江は長治元年(一一〇四)以後三か年分の封物を、全然納めていないのである(『東寺百合文書し』)。しかもその勘文によれば、東寺の封戸が存する十三か国のうち、実に十か国までが、数か年分の封物を全然納めておらず、ことに遠江の三年分などはもっとも少ない方で、他はあるいは六年分、あるいは八年分、越中にいたっては実に十年間、一物も納入していない。残る三か国も、すべて六年あるいは七年間にわたって、ほんの一部分を納めているにすぎないのである。
このようにみてくると、平安時代の財政運営の形は、いかに崩れていたかがわかるであろう。形ばかりは封戸といい、調庸といっても、じつはすべて内容が変わっているのであり、当然、徴収も、運送も、令の方式とはまったく異なり、国司の請け負いの形で行なわれていたと思われる。しかも国司があらゆる口実を設けて、これほどまでに貢納を怠っていることは驚くばかりで、このような制度の乱れが、年給・成功・知行国のような売官を流行させた大きな原因であろう。