天竜河道の変遷

311 ~ 312 / 706ページ
 この文書はその冒頭に、
  「立券
   言上 松尾社御領遠江国池田庄壱処事
    在管豊田郡内」
と記し、つぎに四至を記し、牓示および脇牓示を立てた合計八か所の地点を注し、つぎに荘内の田畠総面積を挙げている。【豊田郡】ここにみえる豊田郡というのは、磐田郡がいつのころか名を改めたものであるが、その郡界も非常に混乱していたらしい。おそらく天竜川の河流が一定せず、変遷を重ねたためであろう。天竜川といえば、池田庄の四至の中に、「東は天竜河を限る」としてあり、池田庄は天竜川の西岸にあったことを示している。しかし、池田庄の庄域は、後述するように、今日の天竜川の東岸にもおよんでいたことは明らかであって、天竜川が平安末には、いまよりも大分東を流れていたことが知られるのである。
 
 【坪付 大見】さて、総面積をあげた後はその内訳で、村・郷などの部落名を掲げ、それぞれにたとえば、
 「大見里
   壱坪壱町作二段畠  弐坪壱町田代二段 □七段一丈」
などのように、坪付(つぼつけ)と称する反別を注記する。