ここに「壱坪壱町」などとみえているのは、いわゆる条里制(じょうりせい)と称せられる古代の地割りである。この形は、面積一町歩の正方形の地を一区画とし(これを坪という)、この区画を縦横六個ずつ並べた三六町の正方形の区画を里と呼ぶ。この里を一列に帯状に並べた地帯を条(地方によっては図)と称する。この条や里、および坪には、順を追って番号をつけてあり(条・里に固有名詞をつけてある場合もある)、この条里の区画は大体一郡ごとに統一してほどこされているから、何郡何条何里何坪といえば、面積一町歩の地の位置が明瞭に示されることになる。
この地割法が条里制であって、奈良・平安時代を通じ、山岳・河川などを除く地域に、ほとんど全国的に広く行なわれたものである。この条里制の起原がいつのことか、大化以前か以後かなどという問題はむずかしい議論を生んでいるが、とにかくこの条里制が、古代におけるもっとも基本的・一般的な地割法であったことは事実であって、池田庄でも当然この地割法が用いられており、このように「何坪一町」というような記し方がなされているのである。
条里制はこのように広く全国的に行なわれたから、今日でもその跡を残している箇所は、近年は耕地整理などで大分破壊されてはいるけれども、なお諸方に存している。浜松市域でも、都田町・貴平(きへい)町・天王(てんのう)町・飯田町などに条里制の遺構らしい地割りがあるという。