頭陀寺領川勾庄

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 【牓示の争】去年、すなわち嘉応二年七月五日に宣旨が下り、それに基づいて国司の庁宣(ちょうせん)や、留守所(るすどころ)の施行(しぎょう)符が出され、池田庄が京都松尾神社の社領たることは明確にきまったから、国衙の使と社の使が一緒に四方に標識を立て、立券の手続きをした。ところが三方までは標識を立てたが、西南の標識を立てようとしたところ、仁和寺観音院末寺の頭陀寺(ずだじ)の所領たる川勾(かわわ)庄の庄官が、境界を越えて池田庄内を取り込もうとした。そこで争いとなったが、証拠書類たる長承の官符(一一三二-一一三四)には、高木明神本を川勾荘の東の界とすると明記してあり、奏聞の結果、十二月二十八日に、境は長承の官符どおりとの宣旨が出たので、今年二月十九日、堺を確定し、立券言上する、というのである。
 ここに出て来る頭陀寺は現に市内頭陀寺町にあり、古く貞観五年(八六三)に定額(じょうがく)寺(すなわち官寺)に加えられた由緒ある寺であるが、平安末には仁和寺の末寺となっていたらしい。そして川勾庄をその所領としていたのであるが、川勾はすなわち今日の河輪であり、その庄域が池田庄と接していたらしい。高木明神本とは、『静岡県史』に十束村宮本であろうとしているが、ここが長承(一一三二ころ)の官符で、川勾庄の東境と定められていたわけである。