これらの荘園・御厨では、相互間の争いや国衙との紛争が非常に多かった。さきに述べた池田庄立券の際の川勾庄との境界争いもその一例であるし、早くは承暦(しょうりゃく)四年(一〇八〇)に遠江守基清が、尾奈御厨の田や、浜名本神戸田を刈り取って訴えられた事件がある。本神戸田というのは遠江において給せられていた皇大神宮の封戸が荘園化したものであろうが、その位置は三ヶ日町の岡本・摩訶耶(まかや)の辺かという。この本神戸田を刈り取ったのは国司の落ち度であろうが、尾奈御厨について国司にもいい分があり、この御厨は起請(きしょう)以後、すなわち寛徳二年(一〇四五)以後に立てられた新規のもので、有名な延久元年(一〇六九)の後三条天皇の荘園整理令によって廃止さるべきものであるというのである。
この問題は、二年の後、基清が神戸田を刈った罪によって停任されたが、御厨の存否はわからない。しかし、たとえ一時停められても、やがて復活したことは確実である。