さらに、『兵範記裏文書』の中の、仁安二年(一一六七)八月の大中臣公宣申状には、都田御厨が先祖三代の領地であり、遅くも永保(一〇八一)以前の成立であることがみえている。この時は、都田御厨が近年、在庁官人の訴えによって一時停止せられたことを歎き、その復活を望み、この都田御厨をもって、伊勢斎宮寮の中院という建物造営の成功(じょうごう)に応じようとしたのであった。
以上のようにみてくると、浜松市内外にある御厨の多くは、平安中期から末期にかけてのころに設定されたことが推測されるとともに、国衙は折りにふれてこれらの御厨を停止し、課税しようと試み、これに対して神宮側も抵抗して、紛争を繰り返していたことが知られよう。
大中臣公宣申状 都田御厨の記事(京都大学図書館蔵兵範記裏文書)