当時、一国の土地は、大別すれば荘園と国衙領とに分かれる。荘園がしだいに増加したことは確かであるが、さりとて国衙領をまったく圧倒し去るほどの勢いであったという証拠もなく、両者の比率は不明である。そして国衙領といっても、もはや令制農民の実体はどこにもなく、内部は荘園と同様であった。ただ国衙は依然としてかなりの権威を持ち、徴税に汲々としていたのである。その税法も、もはや租庸調などというものではなく、平安中期以後は、もっぱら官物地子(かんもつじし)とか、雑役(ぞうやく)とかの名称の下に、あるいは土地に対し、あるいは住民に対して課税していたのであった。