『新熊野神社文書』に、養和元年(一一八一)十二月付の後白河院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)の案文がある。これは後白河上皇が京都に熊野社を模して建てた新熊野社が、その所領の諸庄に対する雑役の賦課を、一切永久に免除して貰いたいと申請したのに対し、院庁がこれを認めた文書である。そこに記されている諸雑役を列挙すると、
1 勅事(ちょくじ)(勅命によって臨時に行なわれる行事の費用)
2 院事(院宣 〃 〃 )
3 役夫工(やくぶく)(大神宮造営の費用)
4 大嘗会(だいじょうえ)(即位最初の大嘗祭の費用)
5 斎宮群行(さいぐうぐんこう)(伊勢大神宮に奉仕する斎宮が伊勢に下向する時の費用)
6 公卿(くぎょう)勅使(皇大神宮への特別の勅使の費用)
7 宇佐使(うさづかい)(宇佐八幡宮への勅使の費用)
8 鰚(ハラカ)・乳牛役(腹赤という魚や乳牛を献る費用)
9 造内裏(内裏造営の費用)
10 臨時国役(国衙が臨時に賦課する雑税)
以上の十種であって、当時、諸国にどんな種類の費用調達が割りあてられたかが知られるとともに、これら一切の負担の免除を申請した新熊野社の虫のよさにも驚かれるが、これは当時の荘園一般の風潮である。
そしてこの文書に列挙されている同社領の荘園は、十六か国二十八か所に上るが、その中に遠江国羽鳥庄の名がみえるのであって、この羽鳥庄が現市域の羽鳥(豊町)の地であり、池田庄の北隣にあったことはすでに述べた。
国衙といい荘園といい、そしてまた朝廷といい、これらの事件を通じて感ぜられるところは、驚くばかりの利欲の深さでありしつこさである。彼らはそれぞれの地位を頼み縁故をたのみ、そしてまた実力をたのんで、手段を尽くして利欲の争いをつづけた。その姿はたしかにあさましいものがあるが、その反面、そこには強い生命力の存在も感ぜられるのであって、そのあいだに時は流れて新たな時代を迎えるのである。