しかし、国家の権力が衰えて来た平安中期以後は、このような官寺は背景援助を失って急速に衰亡した。磐田市西郊にあった遠江国分寺もその例に洩れず、この後ほとんど文献に姿をあらわすことなく、寺址を留めるに過ぎないが、頭陀寺の方は元来私寺であったことがかえって幸いしたのであろう、前章で述べておいたように、平安末の嘉応三年(一一七一)には京都の真言宗の名刹(さつ)、仁和寺観音院の末寺として、川勾庄を領していたことが知られるのである。浜松市域内の平安時代の仏寺として知り得るのは、この頭陀寺一つに過ぎないけれども、それが一国一寺の定額寺という格式の高い寺であったことは特記すべきであろう。もちろん、奈良・平安時代の寺院はこのほかにも幾つもあったはずであって、和田町永田では現に白鳳期と思われる寺院址が発見され、礎石一個と古瓦多数が出土しているが、その地は頭陀寺にも近く、その一帯が早く開けた盛んな地域であったことを思わせる。
それにしても、天竜川の氾濫や河道の変遷によって廃滅した寺院や神社は、決して皆無ではなかったであろう。
木船廃寺礎石(浜松市和田町)
木船廃寺古瓦(浜松市和田町 鈴木一郎氏蔵)