三河説

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 ところが、昭和の初年以来、引馬野も安礼の崎も遠江でなく、三河の地名だという説が用いられるようになった。それは三河の宝飯郡御津(ほいぐんみと)町御馬(おんば)は、旧名引馬村であるというのであって、郷社の引馬神社もあり、引馬野はその一帯の野をさす、そして安礼の崎も、御馬海岸の辺に突出していた崎であろう、という説である。
 たしかに、この歌は持統上皇三河国御幸の時の歌であるから、引馬野も安礼の崎も、三河にあるとする方が自然であるに違いなく、これを遠江の地とするには、御幸供奉(ぐぶ)の奥麿たちが、ちょっと遠江まで足をのばしたのだという想定が必要であった。だから引馬野が三河ならば何も問題は起こらないが、ただ、古来、引馬の名を一貫して用い、有名になっているのは浜松であり、これに反して、三河の御馬村が古くは引馬村であったという根拠は、江戸時代中期の延享三年(一七四六)の古図からの想定であって、いたって薄弱な点を含んでいるのである。

万葉集巻一 西本願寺本