鎌倉時代に入って、『吾妻鏡』には、建長四年(一二五二)の将軍宗尊親王の関東下向の路次につき、三月二十四日の条に「昼渡津(わたつ)、夜橋本」と、二十五日の条に「昼引間、夜池田」と記している。渡津は三河の駅であり、ここから橋本宿(新居)に一泊し、翌日は引間を経て池田宿にいたったわけで、引間(ひくま)が浜松辺であることは疑いない。
果たしてその二十数年後、建治三年(一二七七)の紀行文である『十六夜(いざよい)日記』には、
「今宵は引馬の宿といふ所にとどまる。この所の大方の名をば、浜松とぞいひし。」
と明記しているのである。こうして浜松の引馬・引間の名は、太平記にも、室町時代の禅僧万里集九(ばんりしゅうく)の詩文集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』にもみえ、そして浜松古城の引馬城の名や、引馬坂、さらに曳馬町など、古来一貫して名をあげてきている。