『続日本紀』に記すところを追ってみると、この大宝二年(七〇二)の持統上皇の三河御幸の経過はつぎのとおりであった。
まず、九月十九日、使を伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に派遣し、行宮(かりみや)を造らせた。そして十月三日には、御幸の無事を祈って諸神を祭っている。その上で、十月十日条に、「太上天皇参河国に幸す。」とみえ、十一月十三日条に、「みゆきして尾張国にいたる。」とあり、十七日に美濃、二十二日に伊勢、二十四日に伊賀と経過し、二十五日条に、「車駕参河よりいたる。」と、大和への還御を記しているのである。