長期の三河滞留

333 ~ 334 / 706ページ
 この経過をみると、この時の御幸で、三河滞在の期間は非常に長かったようである。一行は十月十日に出発したとして、まず三河に幸し、それから尾張・美濃・伊勢・伊賀と戻ってきたようであるが、三河から尾張に入ったと思われる日は十一月十三日であって、出発以来、一月を越している。最後の十一月二十五日条に「車駕参河よりいたる。」と記してあるのをみれば、この御幸の主目的地が三河であって、出発以来、一か月半におよぶ長期間であったことが知られるが、そのうちの丸一か月余を、三河への到着・滞在に費しているとあっては、どうしても三河での滞在が、意外に長かったことを考えないわけにはいかない。
 この歌の作者である奥麿や黒人は、『万葉集』ではそれぞれ十数首の短歌を残している相当の歌人であって、詔に応じて歌を詠んだり、殊に黒人は旅の歌を多く残したりしているが、他の文献にはすこしも名をみせておらず、伝記も不明で、あまり地位の高くない宮廷歌人であったと思われる。意外に長かったらしい上皇の三河滞在中に、別に責任ある地位にもいなかっただろう彼ら宮廷歌人が、隣国遠江の西辺に足を伸ばしたと想像したところで、すこしも不自然とはいえないのではなかろうか。黒人の歌の安礼の崎までは保証しないが、奥麿の歌の引馬野は、大勢からみて、やはり遠江の引馬野、すなわち浜松辺の地とみるべきであろう。